開運生活 実施理由2
おじさんが亡くなった為
土地売却の日付を別の日にして、小さな葬儀ですが両親がおじさんのためにあげました
最小限のお世話になった数人の親戚だけで行うつもりでしたが
それでもどこから聞いたのか、友達が数人きてくれました
どうやら全員お金を借りていたらしく、踏み倒されてしまっていたようですが、それでも何も言わずただお悔やみにだけ来てくれました
いいところもたくさんあったんだと思います
おじさんもどこかでボタンのかけ違いが合って負の連鎖からずっと抜けられなかったけど、楽になれたかなあと思えました
自己責任といえばそれまでですが、人には色々な状況や理由、感情が複雑に絡み合っていて、たまたま弱い心に負けてしまったりすることがあるので、亡くなってしまった人のことを悪く言う気にはなれませんでした
でも葬儀中、離婚した家族が、あったこともない親戚をぞろぞろ連れてやってきました
私達は苦労したからお金をよこせと言うようなことを言ってきたみたいです
昔の裕福な頃を知っていて、途中から家にも来なくなったので知らなかったんだと思います
父がもうお金はありませんよと言っても、しばらくは信じなかったようです
おじさんがプライドを捨てて、おばあちゃんの通帳からお金を抜いて授業料を払い続けて、いつからか知りませんが実はマンションも買っていたみたいで、挙句の果てに家から追放されたのに、お悔やみよりまだお金の無心に来るのかと思ったらなんだか切なかった
おじさんはアルコールとギャンブル依存で家族にも暴力していたみたいなので、捨てられても仕方はないから、離婚したご家族も被害者ではあるんですが
と、おじさんが亡くなりおばあちゃんが老人ホームに入って、少しだけ家に落ち着きが訪れました
おじいちゃんが役員だったこともあり、遺族年金が比較的多くもらえたおかげで、貯金は切り崩しているものの、すぐに困るようなこともありませんでした
でも実は私の家にも影響は出ていました
おじいちゃんが亡くなった中学生の頃から、おじさんやおばあちゃんの問題のストレスで家の中はギスギスして喧嘩だらけでした
父も仕事が1番忙しい時だったので相当なストレスだったと思います
私は鬱っぽくなってしまい、学年1.2番だった成績が徐々に落ちていき、学校から何があったのかと心配されて面談したり、原因不明の眩暈や耳鳴り手足の痺れで自律神経失調症と診断を受けました
第一志望の進学校に落ちて私立に行きましたが、体調がさらに悪化して進学ギリギリの日数しか通えず、出席しても座っているだけで授業を聴くことができませんでした
ただ良い子ばかりで人に恵まれていたのでやや不登校気味でも人間関係で つらい思いはせずに済みました。宿題見せてくれた子もいて、本当にありがたかった。
なので今でも皆んなに会いたくなることがあって、コロナ前は年に1回幹事としてクラス会を開いていました(笑)
で、私立にはなりますが希望していた資格職の学部に合格して、奨学金を借りてなんとか大学生になれました。
全く勉強なんてできる状況じゃなかったのでしてなかったけど、元々多少頭はあったのかもしれません。それは親に感謝しないといけないです。
おじさんが亡くなった時、私は大学2年生くらいだった気がします。
私はなんとか資格を取って将来親孝行がしたいという頭があったので、ボロボロでも学校に出席日数確保しにいきましたが、弟はそうではありませんでした。
反抗期と部活のいじめ、家でのストレスが重なり高校生になった頃から登校拒否になってしまいました。これは甘えではなく当然だと思います。
父には妹もいましたが、若い頃はいつも私達兄弟は嫌なことを言われていましたし、おじいちゃんが亡くなって家が荒れ出した頃からパッタリと来なくなり、全部を父と母に押し付けていました。
一見人当たりがいい人で人前では思いやりがあるふりをしますが、おばあちゃんが吐血して救急車で運ばれた時には買い物に行くと言う理由で来なかったような人です(笑)
そういう人なんだなと私は冷静に思っていましたが、弟は優しいので親族の人間関係があまりにドロドロで人間不信になってしまったみたいです。
親は動揺と不安から弟にキツくなってしまい、弟はさらに家から出られなくなるという負のループをたどりました。
母は毎日泣いていました。
なぜか私は毎日弟と父に怒鳴られたり罵声を浴びせられ、弟には殴られていました😂笑
おいおいみんな私に当たるなよと思っていましたが、今の状況では仕方ないかと諦めつつ自分は体調を崩すという見事なまでの負のループ
私はこの苦労も一生続くとは思っていなかったので、それが終わった時に弟が困らないようになんとか弟の高校退学だけは避けなければと思い、隣の県に住む母方の祖母に電話をかけました
「おばあちゃん、弟が登校拒否で家の生活に参っているから外に出してあげたい。申し訳ないけど、学校休んでいるならうちにおいでって言ってあげてくれないかな」
事情を説明すると、祖母はすぐに弟に電話をかけてくれました。
祖母と弟が電話をかけている間に、母に当面生活できるものと学校の用具一式持っていくように説明して、向こうに住んで電車で通学することを提案。
弟はすぐにおばあちゃんが電話をくれたから行きたいと言ったため、道具を一式持って隣の県に🚗
そのままお試しで住んでみることになりました
近所に住むおじさんも、ちょうどおじいちゃんが入院したタイミングでおばあちゃんが心細いから助かるよって言ってくれました。
実家からなら自転車で30分で通える学校に、始発の電車で2時間かけて通う生活が始まりました🚃
それでも悪い環境から離れて、弟は少しずつ元気になって祖母の手前もあるので、引っ越した翌日から学校に通えるようになりました。
で、なぜか弟は私と同じ高校に入ってきたので(多分シスコン)学校で元気か生存確認を行なっていました。母からの渡すように頼まれたものがあると、私の教室に来ていましたが、クラスの子たちが弟を歓迎してお菓子をくれたり可愛がってくれたのでありがたかった。
で、弟は不安定な日々を乗り越えなんとか卒業。
私と同様勉強なんてできる状況じゃなかった上に、勉強苦手だったのでどうなることかと思いましたが、私立の強みで推薦で大学に行けることになりなんとか大学入学。
心の傷っていうのはなかなか癒えないみたいで、大学に入っても時々不登校気味になりなったり、家族とも上手くいかず
父も弟が一緒に住めないことがショックだったみたい
実家に来ても喧嘩して暴れて帰っていく日々は続いていました。
そしてなぜか時々罵声を浴びせられ殴られる私😂笑
私も正論ぶつける癖があるから怒ったんでしょうけど
でももともとは優しい子だから、いつか克服してよくなるといいなあと見守っていました
母は相変わらずいつもピーピー泣いていたので慰めていました(笑)
そして私は6年制、弟は4年制の大学をまたも2人揃って留年ギリギリを滑り込み卒業。就職しました✨笑
でも私も自律神経失調症による体調不良は続いていて、弟も人間不信と不安定な感じは変わらなかったけど
あの時は本当に嬉しかった。
その3に続く